2007/9/1 土曜日

創業話:創業直後(後編)

Filed under: サイバーステップ創業話 — さとうるい @ 18:34:54

さとうです。

コメントありがとうございます。
C21のバランスに関しては賛否両論あるかと思いますが元のカスタマイズによる大型ロボの個性や強みをそのままに、SサイズやMサイズの小型ロボに機動力という個性を際立たせ、コズミック・ルネッサンスの多様性をより豊かにできたのではないか!と考えております(賛否両論あると思いますが…m(_ _)m)。

さてさて、
創業話なのですが、なかなか話しは尽きないのでズバズバっと書き進めていきます。
さすがに前回のブログを読み直すと縦にものすごく長くなっていたため、新しい記事に変更しました。

前ブログを未読の方はこちら↓から~
第一話 サイバーステップ 創業話:学生時代
第二 サイバーステップ 創業話:創業直後
<20070901>
■創業直後:商売開始
お金も無事に借りられ、当面の資金繰りには目処を付けたのですがそれでもお金はサクサクなくなっていくものなので、さてどうしようかと悩みました。
当時、特に都内の会社に付き合いがあったわけでもなく、つてもなく金もなく実績もない状況だったのでない知恵絞って商売を始めることにしました。
自社物の開発はやるぞ!としつつ、お金を稼ぐ仕組みとしていわゆる今でいうところの地域ポータルサイトの立ち上げを行いました。
2000年当時、たくさんのホームページ製作業や個性的なサイトなどが各所で立ち上がっていましたが、調布を含む多摩地区はそれほど進んでいるとは言いがたく、また今ほどネットも普及していなかったのでそれほど必要にも思われていなかったようにも思えます。
そこで、ちーと自分の生まれ育った(生まれは香川だ…)この土地を自分達で盛り上げてみよか!しかもそれでお金稼いでみよか!と思い立ち、cyberstep.com に続くドメインの取得を行いました。
それが何かというと…、.com -> ドットcom -> ドット・コム -> … にちなんで
一個目が「santama.com」
二個目が「sumaino.com」
三個目が「tokyo21.com」
としました。
一個目はその名のとおり、三多摩地方の地域情報サイト、
二個目は当時お金になりそうだった不動産物件に関する情報サイト、
三個目は多摩だけだと仕事少なそうなので23区向けの情報サイト、
三多摩どっと込む、住まいのどっと込む、トーキョー21どっと込む、ですね。
我ながら自分らしいネーミングだな~と関心したものです(^^;
これらのドメインに年間10万円で契約した商店や不動産会社の情報をサブドメイン xxx.santama.com のxxxのところに固有の名前をつけて掲載する商売をはじめました。
これで多摩地区もハイテクに進むぞ~と、1000件契約すれば1億円だ~と、淡い考えをもちながら。
たーくさん営業しました。
コピー機なんてなかったので商工会の印刷機を使わせてもらい白黒A4のチラシを千枚くらい刷って調布市内の各所の商店街や府中、東府中駅を降りた先の店舗など、何百枚も配ったりタウンページで電話番号調べて電話して訪問したり。
行った先も商店街や町の不動産屋はもちろんですが、パチンコ屋からゲームセンター、飲食店や漫画喫茶など様々なお店に飛び込み営業していました。
結果…
多摩地方のポータルサイトを目指したsantama.comは0件、
不動産物件のポータル目指したsumaino.comはたしか7件、
23区向けのtokyo21.netは1件、
いずれも継続が難しくなり、しばらくしてから当初頂いたお金を返してサイトを閉じることになりました。
ちなみにtokyo21.netの1件は、市場調査会社を経営している私の叔父が見積書や納品書、請求書などの受発注のイロハと開業祝いということでサイバーステップ初の案件として発注してくれたものでした。
ネクタイの結び方や名刺の渡し方などは覚えても、肝心のお金のやり取りに必要な知識に関して実際にはなかったので、これは売上以上にうれしかったものです。
叔父が作った原稿を私のつたないHTML作成知識で作ったものを納品し、初の売上が立ちました。
しかも、なんだかんだでその後ネットでの検索が流行り、叔父の会社に実際にネット経由での案件の依頼が少なからず、というか結構な量でくるようになったとか。
その後何で食いつないだかといいますと、上記の商売で培った(というと大げさですが)サイト構築の経験から、いわゆる受託案件としてのサイト一括構築などを行っていきました。
1年くらいはやっていましたが、当時、サイト構築などの受託は恐ろしいもので、特定の案件がネットなどで公開されると、それに対して真っ当な中堅の企業は2~3,000万円くらいで見積もりを出していました。
それに対してぽっと出な私らなど、作るだけなら2~300万円で実際にはできるものなので、それでいくつかの案件を獲得していきました。
しかし、しばらくすると、別に組織ではなくて個人でだって作れるものなので個人が50~100万円で受けるようになり、仕事が取れなくなってきました。
これは異常なことだと…恐らく自分達の見積もりも真っ当な中堅大手の企業にはいい迷惑だと思いましたが、個人が最後は案件として獲得するようになり、これは続けられないな…と感じました。
また、自分達で作りたいもの、作ってみたいもの、やってみたいことなども多々あるなか、受託を続けていくと本来本業にしたい自社開発にぶれがでてしまう事が少なからずありました。
受託を続けるか、受託だけの会社にするか、自社開発に専念するか、いろいろと選択肢はあったのですが、ある取引先から一方的に納品を蹴られて200万円の支払いを受けられない事態が発生し、ふざけるな、と思うのと同時に自分達のやりたいことを自分達がやりたいようにできる会社にしないといかん、そうじゃないと一緒にやっている人や世話になった人もハッピーになれん、というような思いから、サクッと受託から足を洗う方向に改めました。
新規の案件は受けないようにし、今の案件を閉じていく、その間、ちゃくちゃくとお金(現預金)が減っていく限られた時間の中でベンチャーキャピタルにあたり自社開発、活動のための資金を調達する。
結果的には2001年の8月に株式会社化し(2000年7月には有限会社化を行っていた)、ITファームという稀有なベンチャーキャピタルから6000万円の出資が決まり、自社開発に専念していくことになりました。
ちなみにこの出資が決まって株式会社化する直前の現預金残高は自分個人の貯金とあわせて30万円くらいしかなく、来月の支払いでアウト、というひじょーに楽しいタイミングでした。
ちなみに、そのキャピタル周りをしていたとき、ノートパソコンとPHS、それと2,3枚の説明資料を持って回っていたのですが、毎回見せていたデモプログラムは以下のゲームでした。
ネットを探してみたらここに落ちていたので拝借。
お互いが剣で切りあっているネットゲームのプロトタイプ。
タイトル無名

剣を振ると3WAYな攻撃が?
タイトル無名

PHSで会社にダイアルアップで接続し、社内の開発者に予め話しをしておいてネット対戦のデモをそこかしこで行っていました。
サイバーステップの代表作であるゲットアンプドの前に開発した試作にあたるわけですが、ある事情で開発が続けられなくなり、開発言語なども含め一から開発をしたのが初代ゲットアンプドとなります。
ちなみに、この頃まではクライアント側はC,C++を使い、サーバー側にはJava、通信にはCORBA、という恐らくすごく摩訶不思議な組み合わせを使っており、そりゃ非効率だ、となって、クライアント側もJava,サーバー側もJava、なのでサーバーもクライアントもマルチプラットフォームな開発にシフトしていきました。

あぁ…
前回、複線で引いた河上さんの話しがない…
調布の商工会で紹介して頂いた社労士(社会保険労務士)の方なのですが、雇用に当たっての手続きや、当時これも政府による雇用創出のための制度としてあった雇用能力開発機構による新規雇用に対する助成制度(雇用助成)等の手続きから申請までをほぼ全てにわたってもれなく行ってくれました。
当時、これもベタな話しになるのですが、新規雇用にあたって、その被雇用者の年収の二分の1までを最大1年間6人まで補助する、という助成制度で、サイバーステップでもこれを活用しました。
当時は毎月20万円を各自に払うのがやっとで、しかも人員の半分は受託ではなく自社開発にあたっていました。
先に書いたとおり、受託での売上もそれなりにあったのですがどうしてもぶれ、活動にあたって資金面はいつでも不安定な状況が続きました。
そのときに最大6名分もの給与の半分が、確かきちんと手続きすることにより半年おきに戻ってきて、ものすごくありがたい足しになりました。
これにも後日談があるのですが、どうしても便利な制度が出るとそれを悪用して稼ぐ人たちが出てきて、具体的には既に雇っていた人を形式的にあらためて再雇用した形にして雇用助成の対象にしていたり、しかもその事実を働いている人は何も知らなかったとか、一つの会社を6人ずつの会社に分けて全員を支給の対象にしていたとか…
役所のチェックが甘いことなどもあるのだと思いますが、結果的には徐々に助成制度が制限されてきて、最終的には新規雇用者の半年分の給与の三分の一だけを支払うなどにかわっていったそうです。
当初の年間の二分の一に対して、六分の一と落ちた上に申請がやたら煩雑になってしまったとか。

サイバーステップは本当にお金もつても実績もない会社だったので、立ち上げに当たっては本当に苦労しました。
お金が絡むとそれまで親しかった人も鬼のような形相になることがあったり、弁護士を立てて会社間でやりあわないといけなくなったり、お金が支払われなくてつぶれそうになったり。
その根幹はお金だけとはいいませんが、多分にお金が関係していて、お金に振り回されることが非常に多かったのですが、本来論としてはお金に振り回されるのではなくて、やるべきこととやりたいことをやっていき、その結果としてお金を得て、さらにやれることを広げていきたいなと、未だにですがつくづく思います。
2~300万円のことでも会社はつぶれそうになったり、その支払いや請求の最終的な決定権が自分達からは遠く、より大きな企業や発注側にあることなどは、本来自分達が作りたいものや実現したいことを現実のものにしていくための場としては理想よりも遠く、それでもよりよい環境を作っていくために自社開発に強みを持てるようにしたり、自社運営を立ち上げていったり、新規事業やR&Dに着手したり、
やりたいことややれるようにしないといけないことはものすごくたくさんありすぎるほどあるのですが、それでもそのうちの一つずつを実現していきたい、実現していけるようにしたい、などと絶えることなく思ったりしています。
サイバーステップはいわゆる家族主義といわれるような会社には程遠いですが、創業のときから(もしくはそれ以前から)同じ方向に進む気持ちを持っている人を一人でも多く集めて今まで来たと思っています。
ある人は何でこーゆーもの(ゲームやシステム)がないのか、という想いがあったり、表現とかで試してみたいことがあったり、私なんかは世の中を今よりもうちょっと楽しくしたろと思ったり、一見すると違うように見えるものもまとまってみるときちんと一つの方向性に向かっていたりします。
外部の環境に振り回されることなく、むしろ自分達の活動が世の中に影響を与えるくらいになれる場が少なくとも日本にも必要だと思っているのと、その場を作って日本や先進国に限定せず地球上を
楽しくしたろ、というようなことができる環境や活動が本当に重要になってくると思ってます。
しかもそれがただの議論の対象ではなくて、行動や成果を伴った有言実行の内容としてやっていかなあかんなと。
上場はその中での世界戦にエントリーする一つの成果かなと。
多摩の地区予選や都内予選で右往左往していたところからやっとここまで来たかという感じもありますが、これからがやっとスタートなんだな、という思いもあり、まぁがんばって実現していくだけ。
</20070901>

修正
第二羽⇒第二話:ままま~さん感謝(^^;

2007/8/28 火曜日

サイバーステップ 創業話:創業直後

Filed under: サイバーステップ創業話 — さとうるい @ 1:20:16

さとう@ ver 0.2 です。

打ち合わせの後、会社の近くの韓国料理屋にてしゃれにならない量の焼き肉(豚肉&鴨肉)とキムチや総菜をごちそうになり、腹いっぱいの状態でいます。
いつも韓国出張で食事をした後にひとつだけ必ず思うことがあります…
食べ過ぎた~
キムチを食べながらだったり、やっぱり本場だと格別おいしいのと、味付けが新鮮なのと、などなど、言い訳はたくさんあるのですが毎回思います(^^;
まぁ韓国の話はさておき(今回も仕事話ばっかりですので)、ありがたいコメント頂けてしまったりしたので調子にのって続けて書いてみます。
でも一回だけでは書ききれない自信があるので一つのブログ(これ)を何度かに分けて追加して完成させていきます。
そーゆー使い方が一般的なのかわからなないですがまぁいいだろうと。
なので書き出しを ver 0.2 にしました。これが ver 1.0 になったらこのブログは完成で次のブログに進みます。
明日も早朝の便で帰国なのではよ寝なければ(^^;

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第一話 サイバーステップ 創業話:学生時代

<20070827>
■創業直後:卯月アビタシオン(00年4月~00年12月)
サイバーステップの創業の地は東京の調布市小島町にある当時すでに築20年以上の古びたマンションからのスタートでした。
マンションといっても4階建てでひとつの階で2部屋だけなので、誰にでも想像できそうな小さなマンションです。
建物の名前は卯月アビタシオン(うづきあびたしおん)とちょっとしゃれた名前で、調布駅から徒歩8分くらいで旧甲州街道と鶴川街道の交差点に位置し、サイバーステップにかかわりの深い電通大からもほど近い場所でした。
間取りは2DKの10坪33平米で家賃は7万7千円。
2DKとはいっても片方の部屋は変則3.5畳くらいでもう一方がこれまた長細い5.5畳ほど。
図にすると↓のようになります。
変則的な畳の部屋が二つ並んでおり、間を隔てていた戸は外して合わせて1部屋として使いました。

+———————–+
|      ベランダ       |
+————-+——–+
|   机   |        | 机|
|         |        |    |
|   机   |        |机|
|         | 畳  畳|   |
|   机   | の  の|机|
|         | 間  間|   |
+——+      +     +
|   風呂 |            |
+——+              |
| トイレ | ダイニング |
+——+ (フローリング) |
|冷蔵庫とか          |
|炊飯器とか          |
+—————+       +
|流しとかコンロ|玄関|
+—————+ ドア +

机はパイプの足の上にプラスチックの板を置いて組み立てる横幅が110cm、奥行きが50cmのものを図のようにそれぞれの壁に向けて3つずつ並べました。
この狭い部屋の中で当時参加してくれていたアルバイトを含めると10名くらいが勤務しており、その10名くらいが同時に働くことがありました。
そのため、ただでさえ広いと言えない机の上に大工センターで買ってきたベニヤ板を置き、シーツをかぶせてひとつの大きな机にし、奥行きを80cmくらいに幅を持たせるとともに、3つの机で4人が座れる形にしました。
なので一人当たりの横幅は110cmx3÷4=82.5cmとなります。これは普通の社会人が並んで座れば肘がぶつかってしまうくらいの狭さになります。
奥行きをベニヤ板で長くしたのも、当時は液晶ディスプレイは高額商品でとても買えるものではなかったため、当然ながら17インチほどのモニターを使用することになります。その前にキーボードを置くには奥行きが50cm程度では目の前がすぐにモニターになってしまい極めて目に悪い、それ以前に仕事に成り難い状況だったための苦肉の策になります。
イスもパソコンショップの一般に売っている1980円くらいの安物で揃え、ちょっと使っているとイスを固定しているネジがぽろぽろ落ちてきてしまうような安物を使っていました。
座ったまま少し背を伸ばしたりくつろごうとすると、後ろの席に座っている人に簡単に背中がぶつかってしまう、まさに現代のタコ部屋のような仕事場でした。
ブレーカーは20Aまでで建物が古すぎて拡張することはできず、ご飯を炊いている最中に電子レンジなどつけてしまい仕事中にブレーカーが落ちることも多々ありました。
ただ、ブレーカーが落ちるのはこの先3つ目くらいの仕事場まではよくありましたが(^^;
現在のサイバーステップのオフィスには、外部の人を案内するとたいてい驚かれるのですが、やたらと大きな机を多くの人が使っています。横幅が160cmのL字の机で一般の会社では部長級のものと言われているものにアルバイトだって座ってたりします。
これは創業当時に狭く汚い中で、しかも3個の机を4人で使うような、いつ思い出しても開発者や仕事をする人たちの環境としては悪かったな…というある種のトラウマからちょっとでもいい環境にしたいと思い買ったもので、おかげで広いオフィスが狭くなってしまったりしています(^^;
.....
.....
なんちゅーか古き良き苦労話のようになってきてしまった…
いかんですな、

さてさて、ひっそりと事務所開きを終え、最初の仕事に取り掛かることになりました。
この時点であらかじめ都合を合わせておいた浅原と大和田と創業しました。
当時、浅原は高専から編入で進学していた電通大の卒業の時期で、院に進み、院に所属しておりながら実際には会社にいる時間の方がダントツで多いような生活(?)を送っていました。
大和田はワーキングホリデーでオーストラリアに出ていたところ、ちょうど4月に日本に帰国することになっており合流。
他、高専から電通大に編入していたロボコン、プロコン仲間などを巻き込みまくり。
事務所も開き、パソコンなども秋葉原で揃え、さ~て仕事を始めるぞ!となったとき、わたくしが一番最初に始めた仕事は…なんだと思いますか…?

ひじょ~に地味なことなのですが、借金をすることから開始しました。
当時、名古屋で貯めたお金500万円は手元資金としてあったのですが、パソコン8台で100万円ちょい。敷金礼金で30万円とか。その他毎月の人件費や光熱費で100万円~、などなど。出るお金はあっという間です。
2000年のころは、ネットバブルの余韻というか、さなかだったのか、調布ではなかなかわからなかったですが、いろいろな政府による支援がありました。
その後、数千億円の焦げ付きを作ったと報道されている信用保証協会。自己資金と同額の借金までであれば連帯保証をしてくれるサービスを提供しており、早速申込ました。
ここでいきなり壁にぶつかります。
銀行で口座が作れない。
組織を法人化しておらず、個人事業として開始したのですが、個人事業ではいわゆる都銀はなかなか口座を作ってもらえず、「当行と取引されたことはありますか?」と窓口で聞かれて当然ながら「いえ、ありません。なので口座を開きたいのですが」と答えると不思議なことに「取引がないところとは口座を開くのが難しいのですが」などと答えられ、取引したいから口座作りたいのにどないせ~っちゅうんじゃ、と世の中の不思議を体験。
時間をかけてなんとか口座を作れたので、喜び勇んで信用保証協会に再び行くと、「都銀は(信用保証協会を使った)融資を嫌がるので信金で口座開いた方が信用保証で融資を受けられやすいですよ」と…
も~何も言わずに近場の信金で口座をあらためて作りました。
あらかじめ用意された融資の申込書に必要事項と業務内容、事業計画(収支)などを書き込んで審査を行ってもらう。
すでにいくらかのお金を使っていたので400万円になりましたが無事融資をしてくれました。
信用保証協会付きとはいえ、一次連帯はわたくし、二次連帯はたしか親、三次連帯が信用保証協会というものでリスクや親への負担はあったのですが、結果的に借金は翌年にベンチャーキャピタルが参加した後にすべて清算し、返済を行うことができました。
また、このとき同時に採用活動や、市役所や商工会などにいろいろ相談にいくなどをはじめました。
そこで大変大変お世話になった(サイバーステップお世話になったベスト10に確実にランクイン!)社労士の河上さんに出会うことになります。

それらの話はまた後日…(^^y
</20070827>

2007/8/27 月曜日

サイバーステップ 創業話:学生時代

Filed under: サイバーステップ創業話 — さとうるい @ 0:29:18

さとう@ソウルです。

先日少し書きましたが創業したときからのことを何度かにわけて書いてみようかと思います。
サイバーステップに興味を持って頂いた方に古い時のころを知ってもらえたり、会社でも起こしてみっか、と思われている方の参考になったり、これから進学や就職またはその活動を控えている人、またはそういう人を子供に持っている、などなどどのような方にでも構わないので何らかの一助になれば幸いです。

できる限り脚色なしで事実をつらつらと書いてみるので、ひとつだけ読まれるにあたってお願いとしてあるのは、苦労話とだけは思わないで頂きたいこと。
苦労がなかったとは言いませんが、苦労は誰でもいつでもあって、過去に浸ったり慰めてもらいたいというわけでもなく、また、僕ら以上に苦労されている方も多数いると思います。
上にも書いたとおり、一人でも多くの人が、先々を明るく見通せるようになるために過去を調べてまとめたり、経験したことを書籍にしたりするんだと思います。
この場はそこまで重たいものではありませんが、その真似事くらいのことを目指してみたいと思います。

さてさて、長くなりましたがちょろちょろと思いだしながらいろいろ書いてみます。

■はじめに
・本内容はサイバーステップの活動に関係する個人や企業、団体などが当時の名称または仮称などで書かれます。個々の方や企業、団体との当時の関係やかかわった内容などを元に明記するか仮称のようにするか判断して記載しますが、もし掲
載後に指摘などを受けた場合は文面を事前・事後の告知なく変更することがあります。
・可能な限り正確な時期や当時の名称などを記載しますが間違いやずれがあることがあります。

などなど、いくらか不安材料がありますがご理解のほどよろしくお願い致します。

■創業前:学生時代
サイバーステップは、創業を2000年4月1日としていますが、実はその前身となる組織を1996年に立ち上げていました。サイバーステップコミュニケーションズという組織で唯一の活動となる製品の開発とその発表のみ行って活動を停止しました。
1996年というと自分たちは東京高専の学生でたしか4年生(19歳)でした。
サイバーステップコミュニケーションを立ち上げる前に全国高専のプログラミングコンテスト(プロコン)の自由部門に応募し、全国大会で最優秀賞となる文部大臣賞を受賞したものの企画をベースに新たに1から作りこみを行い製品としました。
大会に出たものは複数のPC上のウェブブラウザ間で同一の3D空間を共有し、チャットはもちろんですが簡単なシューティングゲームなどが行える要素を備えたコミュニケーションツールでした。作品名はたしか「ネットワークコミュニケーション支援システム 井戸端」。
いまでいうところのVRMLやセカンドライフなどのようなものだと思ってください。
もちろん、当時のPCは性能がいまのものと比べれば天と地ほどの差があり、3Dも当時の僕らが作ったのはいわゆる疑似3Dといわれる2D上のキャンバスの上に奥行き感を持たせた3Dの絵をCPUのパワーだけを使って描くというものでした。
そのため、見栄えは今風なものと比べれば格段に落ちますが、システム面に関しては3D空間内にハイパーテキスト型のリンクポイントを構築できるようにし、データ量もものすごく抑え、快適にユーザー同士がコミュニケーションに使えるものにしました。
HTML(Hyper Text Markup Language)やVRML(Virtual Realty Markup Language)のようにファイル名をCSML(Cyber Space Markup Language)と名付けてネットサーフィンをするような感覚で3D空間を共有し、行き来できたり、ちょっとしたプラグインを実装することで簡単なシューティングゲームを構築することなどをできるようにしていました。

プロコン出場のほとんどのメンバーはその前年に参加した全国高専ロボットコンテスト(ロボコン)のメンバーでして東京高専の同学年の中で情報工学科と電気工学科の学生が主でした。
ロボコンは結果的には関東大会ベスト4に留まり、1位、2位であれば全国大会に出場できたのですが劇的な敗北(という表現が適切かどうかはさておき)を経験し、翌年は本業(?)に近いプロコンに参戦しました。
ちなみにこのロボコンのときに作ったロボの名前は「ピタゴザウルス」。軽量化のため三角形を多用し、長い竿を2本備えて恐竜みたいな首を持っていたため、メンバーが名づけました。観客の子供からかわいいかわいいと好評だったのがうれしかった。
プロコン後に1から作り上げたウェブブラウザ上で動作し、遠隔地の人同士がコミュニケーションをとれるアプリケーションを開発し、販売のための活動を開始するに至りました。

この時の組織名をどのようなものにするか…当時いろいろと悩んだ結果、ドメインとしてもとれるものを、と考え、いろいろ案を出しました。
ネットは遠隔地への通信手段として使えるだけでなく、さまざまな端末から自分の環境にアクセスし、情報を活用し、さらには自分たちがアプリケーションを作ることで新しいネットの使い方を実現できるなど、ものすごく便利だなと感動していました。
ただ、一方でその情報の伝達がシンプルすぎておとなしすぎる、騒がしさが物足りない。また、当時の僕らの身の回りではあたりまえだったファミコン的な面白さがなく、あくまで便利さが際立っている、という印象が強くありました。
便利だけどつまらんな、と。

当時からそうでしたが、ネットの主な使い方は何らかのファイルをダウンロードするか、メールやファイルをアップロードするか。他人がアップロードしたものを自分がダウンロードし、またそれに手を加えてアップロードする。メールやブログもそうですが基本はあまりかわっていません。
ハードディスクの1MBあたりの単価や回線利用料が劇的に低くなったり、パソコンのCPU処理能力が格段に高くなったため、テキストやよくて画像どまりだったものが映像になったり、個人ですごいサイトが立ち上げやすくなったくらいです。
ちなみに95年前後のころは1MBのメインメモリの価格が1万円くらいで、40MBのハードディスクが7万円くらいしました。CPUも100MHzくらいで、いまと比べればざっと考えてもメインメモリが1GB1万円だとすると1000倍、ハードディスクに至っては400GBが1万円なら7000倍、CPUは2GHzなら20倍ですがデュアルコアなら40倍、くらいの単価下落です。
これが10年もたたないうちに行われたわけなのでそれぞれのハードメーカーの努力には頭が下がります。
でもね、ソフトウェアに関しては部分的な進歩を除いてアプリケーション全般としては大して進歩をしているようには思えないんです。
一番最初にネットを使ったころと、今で、音声とかが気軽に使えるようになったりメッセンジャーなどで気軽に連絡が取れるようになったのは非常に便利になりましたがそんなものは昔からUNIX上のチャットコマンドやっていました。
逆に言うと相当昔の時点で作れるソフトウェアはほぼ完成していて、今はそれらの技術を誰でも使いやすいように汎用的にしたり低コストで使えるようにすることが中心の時期になってしまっているように思えます。
今のネットやパソコンの利便性のほとんどはハードウェアのメーカーによってもたらされたもので、ソフトウェアの技術者からは努力が足らないのではないかと…

さてさて、組織名やドメインの話からえらく話がそれてしまったようになりましたが、まかりなりにも情報工学にふれ、ファミコンで育った自分としてはそのような状況は許し難いもので、ちょっくらネットをもっと騒がしいものにしたろか、と思ったわけです。ただ騒がしいのではなくて、楽しいから騒がしくなるような。
たとえばファミコンを前にしてワンコンとツーコンしかない8ビットのコンピュータなのに、プレイヤーはもちろん周りにいる観戦者をも巻き込んで盛り上がるような。
たとえば自分が持っていないドラクエを友達のうちで友達がプレイしているのを見てその世界に一時的でも入り込めてしまうような。
エンターテイメントにはそういったさまざまな可能性や実績があるわけで、そういうものを含めて今存在しない全く新しいものを作ったろうと考えたわけです。
結果から、組織の名前はネットを表現する要素と、動きを表す要素からの組み合わせで考えることにしました。
ネットを表現するものとしてはnetwork, net, cyberなどがありますが、動き、に関してはさてなににしようかと、、、
最初に思いついたのが単純に「歩く」という意味でcyberwalk.comが取得可能かどうかを調べました。
結果は取得済みだったのでNG。
次に、うぅ~ん、じゃぁもっと飛び跳ねている感じで「ステップ」で取ってみよう、と考えcyberstep.comで確認。
おぉ、とれるぢゃないですか。
当時は英単語ひとつだと.comドメインはほとんどとれませんでしたが、単語二つまではまだ取得できました。
いまは英単語が入っているだけで相当のドメインが取れなくなっているようなので、きちんと希望のドメインが取れてとてもよかったと思っています。
ちなみに cyberstep.co.jp ではない理由は、 .co.jp ドメインは日本では法人格でなければ持てないという理由からでした。
結果的には .com ドメインでよかったな、と思っています。

ここでやっと組織名が決定。
ここから学生のときではありますがグループで開発したソフトウェアを一本7万円でネット接続事業者(ISP)向けなどへの販売や宣伝を開始し、当時としては珍しい活動だったのか読売新聞の全国版にカラーで掲載され、ただ、その活動が学校に知られることになり停止を勧告され、卒業し、1ヶ月間個人でマレーシアとタイを冒険し、ヤマト運輸で引っ越しのバイトで金を貯め、その金を元手に名古屋に1年半出稼ぎに出て、創業資金500万円を貯めて2000年4月1日にめでたく仲間集めて創業しました。

卒業から本格的な創業までの2年間はいろいろな意味で非常に充実していた期間でした。
おそらくネクタイの結び方も名刺の渡し方も受発注の仕方もまともに知らなかった学生の状態で有頂天になるような成功を得られなかったのは結果的にはよかったことで、また、高専という高校入学から20歳までの5年間も当時としては極めて早いうちからUNIXやインターネットに接し、情報工学を学べたのも(成績は決して良い方ではありませんが…)よかったな、と思います。

世の中にない全く新しいものをつくったろう、という思いと、一度は挫折した自分たちが作ったものの事業化、に環境や体制、資金面などを一新して再度チャレンジすることになりました。
そんな日はエイプリールフールが似合うだろう(^^;と思い、4月1日は外しませんでした。
まぁもともと2000年4月1日に創業することを名古屋で働き始めたときあたりから考えていたのですが。

さてさて、
卒業後のマレーシアやタイも一人でクアラルンプール(マレーシアの首都でマレー半島のほぼ中心に位置する街)から北上してタイの首都バンコクまで一人でバックパッカーな生活しながら旅行したり、その後の名古屋で大学のネット管理や企業へのセミナー補助、大学のシステム開発に参加するなど貴重な経験をし、楽しい話もたくさんあるのですが、次回はやはり創業後の話書いてみたいな、と思います。

長文、ここまで読んで頂きありがとうございましたm(_ _)m

つづく(^^y

追伸
2007/08/27 23:19
スペルミスを修正 “cyberwark.com” -> “cyberwalk.com” merryさん、感謝(^^y
誤字を修正 “全身” -> “前身” (;_;

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